何かが違う

何かが違う

◆某公募展に出品した作品です。そのCGデータにアニメを加えてご覧いただいております。

◆環境問題が叫ばれるようになってから「里山」という言葉がよく報道上に出てくるようになりました。特に、農作物への獣害では、
【かっては、人の住む里と動物がすむ山との間にあった里山は両者の緩衝地帯であったが、昨今、里山は荒れ放題か、もしくは住宅地になり、緩衝地帯の役目を為さなくなった、故に、里にいきなり山の動物が入るようになったのが獣害が増えた大きな要因である】と、報道されています。

◆私は、山国育ちなので分かるのですが、そんな、山と里山と里の区分けがハッキリしているところなんてそうありませんし、獣害の原因はもっと別のところにあるように思います。だだ、山の麓にある近くの自然環境とか、里の近くにある低い山とか、こんもりした林に包まれたお寺や神社の境内とか、そういうところを総合して里山と言うのなら、里山は、今も昔も地域コミュニティーの重要な拠点であり、大切にしなければと思います。

◆以下、環境問題とは特段、関係のないお話です。
私の郷里、飛騨の家の横に神社があり、その境内に、とんでも無い大きな欅の大木がそびえていました。境内は村の悪童たちの溜まり場で、村の子どもたちは、事あるたびにそこに集まり、そこで遊び、悪童どもの情報の集約場所であり、発信場所でした。
私が中学1年の頃だったでしょうか、朝、欅の下に村のおじさんたちが集結していました。母に何事かと聞くと、『神社のお社を建て替えるための木が必要だから、あの欅を切るんだって』と言うのです。
あまりの大木のため、切り倒してから切断し、トラックで運び出されるのに夕方遅くまでかかりました。

◆不思議なことですが、その欅の木が、その境内から消えてから、村の悪童どもが、そこに集まる回数がじょじょに減りはじめ、いつの間にかそこから子どもの遊ぶ姿も消えたのです。私たちは子どもでしたから、欅が無くなったことの寂しさなんか、そんなに感じませんでしたし、遊ぶ場所ですから、別にどうってこと無かったのですが、でも、子供心に「何かが違う…」と感じたのです。大げさに言えば、欅1本で「何かが昨日と違う」と感じたことが、小さなコミュニティーを分散させてしまったのです。

◆子ども時代に限らず、大人になっても『あれ、昨日と何かが違う…』と感じて、さめていく自分の気持ちを客観的に眺めている自分を感じたことってありませんか?。何か取り組んでいたことでも、仕事でも、人間関係でも…。

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コメント

Yukaさん、こんばんは。

★TVから、私の話を、フッと思い浮かべていただいてありがとうございます。
★yukaさんのおっしゃるとおり、多分、その欅の大木は私たちに、トンでもない重要な情報を発信していてくれたのでしょう。
★聴診器ならずとも、木の幹に耳を押し当てて、幹の中の音を聞くということは、子どもの頃から、みんなよくやっていましたよ。先輩たちは、その『ゴーゴーという音は地中から水分を吸い上げる音や』
と言っていました。私も、そのように後輩達に教えたものです。多分、樹の上部に風が当たった音の振動だと思いますけど…、樹によって、それぞれに音が違うので不思議でした。

玉さま、夜分にこんばんは。

後ほど・・書いておきながら、とても遅くなってしまいました。

日曜日、テレビをながら見していたら、木のドクターもしくは学者さんのような方が子供達に、木の幹からどんな音が聞こえるか聞いてごらんって言って聴診器を渡したんです。
子供達は、ゴーゴーとかユニークは擬音語で表現したてたんですけど、そして、そのドクター(?)が、木はアンテナのようなもので、いろいろな音を拾ってくるんだよって。
アンテナ・・・!その会話を聞いて、玉さんのエントリーを思い出したんですね。
そうか、子供達が事ある度にそこに集まり、そこで遊び・・情報の集約場所であり・・・ もしかしたら、木からも目に見えないけれど、いっぱいの情報を受け取っていたのかもしれないなって。
勝手に納得していたのでした。玉さん、すみません、私の勝手な独断ですが、玉さんに言わなくてはと思ってコメントさせていただきました(^_^;)

田舎時遊人さん、こんばんは。

◆お訪ねいただき、ありがとうございます。
◆そうでしたね。田舎時遊人さんは里山の住人さんでしたね。たしかに、おっしゃるようなご指摘、良く理解できます。私たちの子ども時代の飛騨の町は、村全体が里山のようなものでしたが、現在の社会状況では、里と里山が子どもでつながるということも、この社会状況では難しいかも知れませんね。だいたい、外で遊び回る子ども自体をあまり見かけませんもの…。
◆田舎時遊人さん家族の里山暮らしの意義を大いに発信してください。

里山に住んで・・・思うこと

里山に住んでる者として、非常に興味深い絵ですね!
私は里山への移住者ですから、昔の事は良く解りません。ですが里山に限らず、地域のコミュニティーという面では、人が少なくなり子供も少ない地域では成り立たせることが非常に難しくなってきているのが現状のような気がします。子供が増えてこそ、愉しい行事ができますから・・・子供たちに「未来が見える里山」に出来たらと思います。今は情報発信だけですけど・・・

「少子化」という言葉で簡単に片付けてはいけないような気がします。

nanbuyasさん、こんばんは。

★いつもありがとうございます。
★そうですね。嘆いていたら、実は自然の回復力もすごかったってこともあるのですね。いつか新聞で見たのですが、赤松林の山がマツクイムシで全滅し、地域の人が嘆いていたら、それまでマツの影で成長しなかったさまざまな広葉樹が一気に成長し、山全体が広葉樹林に生まれ変わったという、ウソのような嬉しい話もあるようです。

水無月さん、こんばんは。

★お訪ねいただきありがとうございます。
★人との関係でも、フッと感じた感覚が、自分自身の中に、さまざまな変化や悩みや苦しみを生じさせるってことありますね。水無月さんもそんな感覚をお持ちになったことがあると聞いて安心しました。
★確かに、「少し違う」どころではない「全く違う」にならないことを祈るばかりです。特に北海道の大地は…。私の町のような小さな地方都市でさえ、ここ十年で「全く違う」箇所が随所にあります。

似たような経験があります。私の生まれ育った、所の街道沿いに、古い神社が有ります。霊気を感じたものです。周りはうっそうと杉林でしたが、一度その杉林を伐採したことが有ります。後に残った神社はみすぼらしい姿に、一面に生えていたコケは白っぽく枯れてしまいました。霊気も感じなくなりました。それから何十年、その後に植林した杉が大きくなり、元の神社に戻り、霊気も感じるようになりました。

こんばんは。
見慣れた景色が、一本の木が消えたことで感じる違和感・・・
これは小さいようで、実はかなり大きなことだと思います。
きっとそこには、心地よいと感じる風や、空間、人とのつながりが存在していたのでしょうね。
そんな違和感・・風景だけじゃなく、人間関係を含め色々な場面で感じることが、私もあります。
一瞬にして感じた思いが、いつまでも心の底に残って、自分だけ苦しんだりすることもあったりします。

私は田舎に住んでいるのですが、きっと田舎ほどどんどん変っていくのかな、と思います。
娘がいつの日か、この景色を思い出したときに、「何かが違う」くらいの変りかたなら少しはいいけど、
「全く違う」風景になりませんように・・・、そう思う私です。

外道sさん、こんばんは。

★『あれ、きのうと何かが違う…』ってことで、関係が冷めていくことってのは、ありますね。勝手かも知れないけど、『あれ、きのうと何かが違う…』って感覚は自分的には正しい感覚だし、一度、そう感じると、なかなか元へは戻らないし、戻そうともしないのです。私も…。

『あれ、昨日と何かが違う…』
私は、人間関係をそういったニアンスで切ってしまう所があり、その事で自分の世界が狭くなって行く事が解っているのに・・・
この絵も私ごのみです。

枯雑草さん、こんばんは。

★ありがとうございます。
★私が想像する枯雑草さんのお人柄のイメージ通りのコメントをいただきました。
★おっしゃるとおりですね。私のような無礼な者でさえ、通勤の道にある聳える大木の前を通り過ぎるときは、必ず、チラッとその大木を見上げて、なんかその一瞬、敬虔な気持ちになる自分をつくるのが、意識はしていないけど、毎朝の日課になっているように感じます。

こんばんは。いい絵、いいお話ですね。
人は、世の中あるいは周りの環境と係り無く生きることはできませんから、何らかの心の拠り所をもとめるものかもしれませんね。意識、無意識にかかわらず、また、人であったり、自然であったり。それが、突然無くなったとき、何かが変ったと感ずるものですね。
注連縄があろうと無かろうと、私は、大木には神が宿り給う、という感じを拭い去ることができません。何百年も生きてきたノウハウをいっぱい持って。願わくば、それらを学びとることができたら。

オリオさん、こんばんは。

★いつもありがとうございます。
★そうですか、オリオさんもそんな経験がおありですか、特段、自然保護なんていう気持ちがなくても、常に自分と共にあった風景の一部が欠けると、なんか心の支えが少しぐらついたような気がして、しばらくは、さみしい日が続きますね。しかし、また、しばらく経つと、その今の風景に慣れてしまう。人間のいい加減なところでもあり、良いところでもあるのでしょうが…。

子供たちも、やはり淋しいのでしょうか、何かが違うんですよね。
私も昔(20年位前)に住んでいたアパートのベランダから、真正面に小高い山と、その天辺にお宮さんがある風景を何年か眺めて生活していたのですが・・・。
ある日、その山が崩されて、山の上が平らになり、大きなマンションが建ちました。(まっ、都会では、当たり前にあるような出来事でしょうが)
その山の景色が好きだったので、スケッチブックに描きとめて置きました・・・。
玉清さんのこのブログを拝見して、ふと、そんな事を思い出しました。

響さん、こんばんは。

★いつも、ピッと前を向いたコメントをいただきありがとうございます。
★響さんと同じようなこと、私もありますね。一人の先輩の存在で仲間関係が強固になったけど、もしその人が居なかったら、とっくに四散していただろうと思う小集団を私も持っています。
★その人の強いリーダー性とかいうものではなくて、なんか、その人がいないと動きが定まらないというか、そんな不思議な存在感を持った人って、いいですね。
★飛騨の実家はもう今は無く、墓参に行くたびに、その神社にも参拝するのですが、その欅の根っ子の部分が化石のようになって、まだ残っているのです。横着だった少年時代を知っている証人のようで…。

こんにちは。
玉さんは神社の大樹でそう思ったのですね。
私は1人の”人”でそれを感じます。
1人の人のおかげでつながっている人と人。
その存在がなくなったら・・・。

なくなってからわかる。その存在。
ひとりの人間である自分的にはそういう生き方も悪くないんだけれど、
できれば自分の亡き後もそのコミュニティーがつながってって欲しいかな。。

あ、そう思うと”大きな欅の大木”サン、寂しがっているかも。

少年の日の象徴だったのかな・・そして少年は大人になった・・。
”パフ ザ マジック ドラゴン~♪”って歌を思い出します。

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