
★この作品も過去に使った別々のイラストを少し手直しして組み合わせたリサイクル作品です。まだ見ぬ宇宙、イメージはどんな勝手なイメージでもありです。
きょうの話題、ちょっと無理矢理ねじ込んだ感がありますが、イメージつながりです。
★先日、松尾芭蕉の生涯を辿った某局の番組を見ました。わずか17文字の表現で、それを読む人々に限りなくさまざまなイメージを広げてくれる芭蕉の偉大さを再確認させてくれた良い番組だった、と私は思いました。
★が、専門家とか、研究者というのは私たちに余分な固定観念を押しつけるところもある、と若干思うこともあります。
その番組の中で、例の『古池や 蛙とびこむ 水の音』の解説をしていましたが、こんなまとめ方をしていました。
『悠久の自然の中に見る 一瞬の生の輝きとはかなさを17文字の中に表現した』 だそうです。
なるほど、うまいことを言うとは思うのですが、絵でも、音楽でも、文学でも、名作古典と言われるものは長い歴史のなかでこねくり回されて、専門家や研究者たちの言葉の博識を披瀝する素材になっているのではないか、と思うことがあるのは私だけでしょうか。この『古池や…』も、『一瞬の生の輝きとはかなさ』と、ピシッと格好良く論評されると、俳諧界での名声を捨てて、全国をボロボロ姿で彷徨した旅姿の私の芭蕉イメージが遠ざかってしまうのです。
俳句には全くのド素人の私にでも、それなりにその時の芭蕉目線をイメージ出来る、それが芭蕉の俳句のステキなところと私はかねがね思っているものですから…。
★では、私のこの『古池や…』のイメージはこうです。この句で私がいつも想起するのは高校生の頃に見た、飛騨の某地区の入植部落の廃村風景です。農家の廃屋の横に、かっては鯉が泳いでいただろうと思われる石で囲われた小さな池があって、そこに浮かんでいる落ち葉が微かに動いていることで、いまでもわずかな山水が流れ込んでいることが分かりました。『古池や…』の句の活字を見るたびに、そのときの廃村風景が脳裏に浮かび、締め付けられれるような自然の静けさを感じるのです。
★絵でも、音楽でも、文学でも、表現されたものは全てそうだと思うのですが、自分の体験や経験、あるいは原風景と知らないうちにつながり、その心の琴線に触れた作品が「好き!」になったり、なんにも触れない作品が「嫌い!」になったり、あるいは「何も感じない…」になったりするのでは、と思います。
えらい先生の論評に左右されないで、自分のレベルで、自分の感覚で、自由に表現されたものと接したいし、表現したいと、その番組をみたあとに思ったのです。
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