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100歳の天寿全う

100歳の天寿全う

★寒さが厳しくなり始めた昨年の暮れから、家の中に避難している我が家の各種鉢物の冬籠もり風景である。何もしないで、ただじっと南の窓際で春を待っている。まさに私と同じだ。
そろそろ玄関先に出そうと思っていたら、なんとこの時期になって今年最大の寒気が南下する由、コイツらが外の陽光に触れるのは来週になりそうだ。

★さて、書き出しとは全く関係のない話題だが、先日、何気なく紙面に目を通していたときのことである。いつもはその「おくやみ欄」など気に留めたことも無いのだが、その中の一行に私の故郷の町と懐かしい住所地名があり『ウンッ?』と見入ると、MTさん(100歳)と掲載されていた。

★『あ~、Mさんとこのおばさん、100歳まで生きていらっしゃったんだ…。』と、深い感慨を覚えた。私はこのおばさんをよく知っており、遠い少年時代の思い出とともにある。

★飛騨の私の住んでいた家の真東方向、飛騨川対岸の山麓に大きな農家があって、乳牛を飼っていた(遠い日のことなのでハッキリしないが、もしかしたら乳牛ではなく山羊だったかもしれない)。‘おばさん’はその家の奥様だった。私はいつも一升瓶を抱えて搾りたての牛乳(山羊乳)を分けて貰いに行くという我が家のお使い係だった。カラの一升瓶を持って行くと、既に牛乳(山羊乳)がはいった一升瓶が置いてあって、カラの一升瓶と取っ替えてくるのである。

★田舎の家並みを一升瓶を抱えて歩くのは、さすが小学生の私でも恥ずかしかったのだが、それにまさる余得が私にこのお使いを続けさせた。牛乳(山羊乳)が四分の一程入った一升瓶を貰っての帰り際に、おばさんは『ハイ、これ』と言って必ず何かをくれた。その時々によって、お菓子だったり、茹で栗だったり、冷えたトマトだったりさまざまだったが、貧乏でいつもひもじい思いをしていた引き揚げ者家族の私にとってあの時のおばさんの優しい顔とおいしいお駄賃は今でも忘れていない。

★その後、飲料業者が牛乳を配達するようになり、いつの頃からかおばさんのところにも行かなくなった。

★爾来半世紀以上経て、まさか新聞紙上で100歳の天寿を全うされたおばさんの名前を目にするとは思わなかった。心からおばさんへのお礼とご冥福をお祈りした。
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御嶽山

御嶽山

★私の故郷の山、御嶽山が大噴火をした。穏やかな初秋の登山を楽しんでいた人、頂上からの見晴るかす絶景に感動しながらお弁当を食べていた子どもたち。いきなりの噴火、その噴煙、噴石、ガスが頂上周辺の人々を襲った。報道によると50名以上の方々が亡くなり、二週間経った今も、まだ発見されていない方々が何人か山にいるという。
山に行く多く人は『もしかしたら自分は危険なことに遭遇するかもしれない…』と心の何処かで思いながらも『でも、自分は何事も無く無事に帰る!』と確信し、そのとおり無事に帰る。なのに、こんなに多くの方々が帰ることが出来なかった。
山で逝かれた方々の御霊が安らかでありますようにと、ただ祈ることしか出来ない。

★私の故郷は、御嶽山の岐阜県側からの登山口がある小さな町だ。子どもの頃、村の吊り橋を渡って、少し坂を登ると御嶽山麓の国有林から材木を切り出すために敷設されたトロッコ線路が通っていて、線路に沿って500メートル程上流に行くと、幾重に重なる山並みの最深に霊峰御嶽山がいつも見えた。夏は薄紫に美しく、冬は白く光っていた。私たちの誇りの山、憧れの山だった。

★最初に登ったのは中学2年生の夏だ。当時は6合目までの車道が開通していなかったので、麓から歩いて2泊3日の御嶽登山だった。今思えば、御嶽山への道も地理も詳しく知らない中学2年生3人だけの登山をよく親が許可してくれたと思う。
やがて6合目の濁河温泉までの車道が開通し、以来、幾度も御嶽山に登った。そしてそのたびに御嶽山への憧れが大きく膨らんでいった。原生林を抜け、低木地帯を過ぎ、這い松の道を登ると御嶽山飛騨頂上に着く、そこから各峰々を行く。
御嶽山の空気も、風も、辿る苦しみも、汗も、全てが私の人生を創る重要な要素になった。

★先回の噴火も今回も、幸いにも岐阜県側への影響は少なかった。山は遠からず治まり来夏はまた静かな美しい姿に戻るとを信じている。今の私には6合目から頂上を目指す体力は多分もう無い。だから、先日、せめて何時も登っている近くの権現山頂上から遙か東方に浮かぶ御嶽山に祈った。



近づく夏

近づく夏

★久しぶりのアップです。昨秋の展覧会で並べた作品の一つです。

★私が子どもの頃過ごした飛騨の実家は、山の中腹にある荒屋(あばらや)でした。破れた障子の穴から灯りに誘われていろんな虫が部屋の中に入ってきました。
この絵は少々誇張気味に描きましたが、まあ、この状況に近い飛騨の実家の夏の夜でした。

★私の小学校時代の夏休みの研究も毎年「昆虫採集」で、家に居ながらにして出来たのです。私の二人の息子も小学校の低学年頃までは、毎夏、ジジババのいる遠い飛騨の荒屋に泊まり込み、私のその頃と同じように「昆虫採集」をしたものです。
もうとっくにその荒屋も無く、ジジババも居ませんが、思い切り自然を堪能させてくれた家でした。

★さて、昨夜のことです。夕食を終えてテレビを来ていたら、私の座っている後の網戸で、バンッ!と物が当たる音がしたので、振り向くと小さめのコガネムシが網戸に這い蹲っていました。今年、第一号のコガネムシ飛来です。暦に「啓蟄」と言う文字を見たのは、ついこの前のように思いますが、もう「啓蟄」から3ヶ月経ったのですね。
この地方にも、いよいよ夏がやってきます。

お久しぶりです。ポチッ!

記憶

記憶

★大正浪漫風のイラストを描いてみました。

★きょうの話はこのイラストとはあまり関係ありません。しいて言えば最後のリンゴつながりぐらいです…。

★中学校か高校一年生ぐらいのときの遠い昔のことですが、「飛騨高山の少し南に位置する久々野町から美女峠を越えて信州に通じる街道がある」という情報を聞きました。別に何と言うことはない情報ですが、当時の私たちには「飛騨から美女峠を越えて信州へ」という言葉の一つ一つに何となくロマンチックな響きを感じたのです。

★男女7~8人だったと思いますが、自転車でその美女峠を目指しました。当時のことですから、舗装道路ではなく石ころのガタガタ道で、自転車も真ん中に三角のごっついフレームがついた重い自転車でした。ヘトヘトになって自転車を漕いだ思い出はあるのですが、さて、その他の記憶は全く無いのです。

★大人になってから地図を見ると、私たちの町はずっとずっと南にある町なので、そんな美女峠まで自転車で行ったなどとは、とても考えられません。途中で引き返したのか、勝手にここが美女峠と決めつけて帰ってきたのかさえ記憶にありません。

★でも「美女峠」という名前だけはずっと気にかかっていました。
ところがここ10年程前から、「飛騨リンゴ」なるブランドがスーパーなどの店頭に並びはじめて、その産地が美女峠周辺らしいことが分かりました。

★そこで遠い昔の自転車行の消え去った記憶の中に、見たこともないリンゴ畑の風景が勝手に入ってきて、私の美女峠周辺の光景を記憶のなかにつくり上げてしまったのです。
「美女峠を越えると一気に高原の視界が広がり、リンゴの木がびっしりと並んでいる。高原の春は白い花に埋まり、秋は赤いリンゴを収穫する人々が忙しそうに働いている」。と、まあ、こんな具合です。
消えた記憶をイメージが補完して、しばらく時を経ると、あたかもそれがホントの記憶のように思いこんでしまうと言う現象はよくあると読んだことがありますが、まさに私の美女峠光景はそれなのでしょう。
総じて記憶ってのはそんないい加減なものなのかもしれません。

★が、ネットでその「美女峠」を調べると、数ある有名峠に比して、この峠はただの切り通しになっているだけで、つい通り過ごしてしまうような地味で目立たない通過点のような峠とあり、ガッカリしたのです。
う~ん、それならやっぱり、いい加減な記憶の中にある私の美女峠光景のままでいいか…。

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終戦の日

終戦の日
★昨年も、この時期に書きましたが、今年も種からアスターを育てました。アスターの葉や花をこよなく好む害虫ハムシとの戦いの数ヶ月でしたが、明日の飛騨への墓参に、母の大好きだったアスターをいっぱい供えることが出来ます。

★今年もまた、終戦の日を迎えました。戦争体験者が年々に亡くなられ、その悲惨さを伝える語り部が少なくなることを懸念する記事が終戦の日が近づくたびに多くなり、それが過ぎると、もうその話題も紙面から消えてしまう、その繰り返しが日本の現状です。
戦争体験者が語り継ぐ戦争の悲惨さから、平和の尊さを肝に銘じなければならないことは、もちろん大切ですが、もっと重要なことは、常に、我が国が体験した戦争の現実を子どもの時代からキチッと知識として把握し、その不条理と平和の尊さを学び続けることです。その意味で、現在の学校教育には、この部分の歴史教育が著しく欠けていると感じます。特に、戦中、戦後史などは、私たちに最も近くて、学ぶことの多い過去なのに、私感ですが、軽んじられているように思えてなりません。

★私の家内の養父は戦争末期、レイテ島の特攻隊で果てました。家内も写真でしか知りませんが、家内の養母と二十代の初めに結婚した直後にレイテ島の激戦地に向かったそうです。
私の一家は大陸からの引き揚げ者ですが、父は京城で軍部に近いところで吏員をしていたものですから、厳しい追及を受け、一家より数ヶ月遅れて命からがら引き揚げて来ました。20才上の長女は一家が京城から飛騨の町に引き揚げて間もなく、貧困と最悪の食料事情の中で肺結核を患い亡くなりました。その数年後、特効薬のストレプトマイシンが我が国にも出回り一気に結核は遠い病気になりました。母の悔しがりようは、大変なものだったと兄姉たちは、いまでも語っています。
私は、戦争最中の記憶は全くありませんが、戦後の貧困と飢えに苦しんだ家族の苦労の姿は微かながら記憶にあります。
戦争は、それぞれの家庭に、それぞれの形で悲しみの記録を残しています。戦争が残した傷跡の語り部は、なにも際立った体験ばかりを追い求めなくても、戦中戦後を跨いだ人々や戦後を必死に生き抜いた人々、そこをジッと見ていた少年少女、そんな人々は、まだ身近にもいるのです。

★しかし、貧困と飢えの中から、立ち直っていった歴史も一方で重視して欲しいと思うのです。平和ボケのいま、この平和が一朝一夕に得られたものではないのだ、という思いにいたることこそ、64回目の終戦の日を迎える私たちのもう一つの意義なのです。

★さて、敗戦による引き揚げで、外地での生活からいっぺんに奈落の底に突き落とされた父母兄姉にとっては、飛騨での生活に忸怩たるものがあったのでしょうが、末子の私にとっては、それが大いに幸いしたようです。一家は生活に追われて、末子の私は放ったらかしだったせいか、好きなように自由に子ども時代を過ごせたように思います。飛騨の山々、谷川の清流、神社、咲き乱れるシャガ、柿の木、雪景色、人情の人々、こんな美しい飛騨の山あいの町に引き揚げて来てくれたことを、いまでも感謝しています。
そんな飛騨に眠る父母の墓に、送り盆の花を持って、明日行くのです。

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アスター

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★昨日、飛騨にある両親と先祖への墓参に行ってきた。
戦後、父の実家があった飛騨の山峡の町に大陸から引き揚げてきたときには実家は既に没落していて、家も一片の田地田畑もなく、ただ11基もの先祖の墓石だけが寂しく旧実家の敷地の片隅に林立していたという。外地で結構元気のよかった父は、まだ余力があったのでこの故郷を捨てて、都会に出て10人の大家族のために一から出直そうとも考えたそうだが、母に説得されて、飛騨に留まり先祖のお墓を守っていくことにしたそうだ。

★現在は、その墓石群に父母の墓石も加えて、父の故郷を見渡せるように小高い山の中腹に移転したが、道路からそこへ行くまで足下も悪く、夏は雑草が茂り、ハチや虫が乱舞し、冬は多分キツネの足跡らしきものが雪の上にあったりして、私の息子たちも子どもの頃はちょっと冒険気分で墓参を楽しみにしていた。

★さて、母が生前、いつの頃からだったか、お墓にアスターの花を飾りたいと言い出した。その頃、飛騨の田舎にも新しく入ってきたアスターが花屋の店頭に並びはじめ、この花が流行り始めた頃だと思う。
苗を買ってきて毎年春に植えていたようだがうまく成長しなかった、私がお盆に帰省すると庭を指さしながら『やっぱり今年もアスターは大きくならなかったわ、ここは周囲が木の陰のおおわれているから駄目なのかしら、下のお家はどこの庭にも、アスターが大きく育っているのに…』といつも嘆いていた。
私も、そんな母を喜ばせようと自分の家で毎年アスターの苗を育てたのだが、温暖で虫の多いこの地方では一層うまくいかなかった。先ず、苗の段階で虫が葉を喰う。やっかいなのは周囲の草取りをちょっとおろそかにすると雑草に埋まり、慌てて草を取ろうとすると根の浅いアスターを一緒に抜いてしまう。さらにやっと花をつけるとその花粉に小さなハムシがやってきて、肝心の花の中心部を黒く汚くしてしまう。数年は毎年アスターに挑戦したが、結局諦めてから数年後父母が逝った。

★全くの偶然だが、私の住む市内のあちこちの畑を借りてスーパーに卸す各種野菜をつくっている野菜づくりのプロがいる。そのご主人が私の家の前の畑でも野菜をつくっていて、よく立ち話をするのだが、フッと母とアスターのことや私のアスター失敗の顛末を話したら、なんと彼は野菜だけでなく花づくりの名人で、『先ず、温室で育てた苗をホームセンターで買ってくるようじゃ、アスターは地植えをしても駄目よ、苗が弱いからね、アスターほど虫がつきやすい花はないから、やっぱり種から苦労しなくちゃ』という第一声に始まり、延々アスター成功の秘訣を教えてくれた。数回にわたる植え替えのタイミング、地植えの時のマルチの敷きかた、そのときどきの除虫剤や殺虫剤の種類、肥料の種類、特になるほどと思ったのは『ハムシが花についたら、離れたところからジェットフマキラーをかければいいよ、ジェットフマキラーは蚊やゴキブリだけに使うものじゃないから』と。

★そんなわけで、この三月、彼の教えに忠実に種入れからアスターに取り組んだ。地植えのあともマルチのおかげで根元の草取りの手間が省けた。結果、こんな立派に成長し花をつけた。失敗の株は皆無だった。墓参用にバケツ一杯のアスターを手折ったが、まだたくさん残っているし、手折った下の枝の小さい蕾が秋にかけてどんどん伸びてくるだろう。

★昨日は母が好きだったアスターをどっさり供えてきた。向こうに設置されている花立てでは足りないと思ってので、こちらからも花立てを2本持っていて、墓石のまわりをアスターまるけにしてきた。
『アスターのこと、覚えていたのね』と、母は言っているだろうか…。

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ドウマル

ドウマル

◆この子が着ている綿入りの上っぱり、私たちの子どもの頃は冬の遊び着の定番でした。飛騨ではこの上っぱりのことを‘ドウマル’と呼んでいましたが、いま住んでいるところでは‘デンチ’と言っていたそうです。それぞれの土地で呼び名が違うみたいです。

◆まさか方言なので辞書には載っていないだろうと思いながら引いてみると‘デンチ’はありませんでしたが、‘ドウマル’は‘胴丸’でありました。読むと、「戦のときに着ける簡易な鎧」とありました。なるほど、ドウマルも寒さをしのぐための簡易な上っぱり、だから多分この‘胴丸’が語源なのでしょう。

◆これ、どの子も各家庭で母親の手作りでした。私が見ていた母の記憶では、布団の古くなった布をドウマルの形に前二枚、後ろ一枚、に二枚ずつ重ねて袋状に縫い、グルッと裏返しにして、綿を重ねて置き、その綿がずり落ちないように真綿で丁寧にくるんでから、布を元に戻す、といった具合だったと思います。

◆私のような古布団の表地の再生ドウマルもいれば、家の人の古着の再生ドウマル、中には古い毛布で作ったものだからカミシモのように肩の張ったドウマルを着ているヤツも居たりしました。当時、ドウマルはちょっとした子どものオシャレな遊び着だったのです。

◆今はダウンベストですが、味がありません。今でも、何処かでドウマルを着ている人を見かけたような気がして、数年前のことですが店を探したことがあります。ありました!。ディスカウントショップに。プリント地ですが、いかにもそれらしいカスリ模様で、合成綿ですがフカフカで、あのドウマルそのものでした。早速、家内と私の二枚を買いました。

◆家に帰って、羽織るとき気づいたのですが、ナント「中国製」の文字が!。『お前、とうとう俺の記憶の世界まで入りこんできたか…』と、思ったものです。でも、重宝していますが。

◆◆こちらは昨日今日、いきなりの真冬日です。『おかあさん、寒いから、あの中国製を出してよ』『どこに片付けたかしら、あの中国製…』と、方言の‘ドウマル’まで乗っ取られてしまいました。

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友

◆これは、私が過ごした町の小学校と中学校です。もうとっくに鉄筋校舎になって、この木造の素朴さは微塵も残ってはいません。でも、どこへも抜けることの出来ない、どん詰まりの地理にある町ですから、中学校の向こうに見える部落も、山も、開発されることなく、今でもこの写真のままです。

◆飛騨高山での同窓会で、小学校5年生で転校していったT君との再会は40数年ぶりでした。物静かで、内に秘めた何かがあるといった彼の雰囲気は当時のままでした。そのときは昔話というよりも、お互いのその後の生活変遷についての話が多かったように思います。淡々と話す口ぶりに、当時の彼を重ね合わせながら聞き入ったものです。再会を約してメールADの交換をして別れました。

◆そして間もなく、この写真が彼からメールで送られてきました。写真の懐かしさもさることながら、小学校の5年生で転校したので、この町には10年ぐらいしか居住していない彼が、この写真を持っていたことに驚きました。もちろん私は持っていないし、当時の仲間との数少ない写真のほとんどが、もう散逸消失してありません。

◆さらに、この写真に添えられた文章を読んで、彼がこの町で過ごした幼少期の10年間を、いかに大切な思い出として留めているかが分かりました。サンショウウオの谷、ムシロ敷きの映画館、いつも登った高天原への山道、あの時の街並みの様子、地名、場所名、等々…、ずっと実家をこの町に置いていた私でさえ、記憶の端から消えようとしている数々が明確に綴られていました。彼の文章を元にして当時のこの町の微々細々の絵地図が描けると思うほどの彼の記憶でした。

◆友人というのはさまざまです。40数年のときを経て、いきなり会って、すぐ別れて、その後はメールでしか交流出来なくても、その40数年の空白が一挙に埋められる友人もいるのです。

◆彼から、先日、ある「写真誌」が送られてきました。設計士の彼が中心になって手がけた全国各地の建築物の写真集です。誰もが知っている有名ビルも、幾つかその写真集の中にありました。同窓会のときは、彼、そんなことは一言もは話さなかったのに…。それも彼らしいと思いました。

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何かが違う

何かが違う

◆某公募展に出品した作品です。そのCGデータにアニメを加えてご覧いただいております。

◆環境問題が叫ばれるようになってから「里山」という言葉がよく報道上に出てくるようになりました。特に、農作物への獣害では、
【かっては、人の住む里と動物がすむ山との間にあった里山は両者の緩衝地帯であったが、昨今、里山は荒れ放題か、もしくは住宅地になり、緩衝地帯の役目を為さなくなった、故に、里にいきなり山の動物が入るようになったのが獣害が増えた大きな要因である】と、報道されています。

◆私は、山国育ちなので分かるのですが、そんな、山と里山と里の区分けがハッキリしているところなんてそうありませんし、獣害の原因はもっと別のところにあるように思います。だだ、山の麓にある近くの自然環境とか、里の近くにある低い山とか、こんもりした林に包まれたお寺や神社の境内とか、そういうところを総合して里山と言うのなら、里山は、今も昔も地域コミュニティーの重要な拠点であり、大切にしなければと思います。

◆以下、環境問題とは特段、関係のないお話です。
私の郷里、飛騨の家の横に神社があり、その境内に、とんでも無い大きな欅の大木がそびえていました。境内は村の悪童たちの溜まり場で、村の子どもたちは、事あるたびにそこに集まり、そこで遊び、悪童どもの情報の集約場所であり、発信場所でした。
私が中学1年の頃だったでしょうか、朝、欅の下に村のおじさんたちが集結していました。母に何事かと聞くと、『神社のお社を建て替えるための木が必要だから、あの欅を切るんだって』と言うのです。
あまりの大木のため、切り倒してから切断し、トラックで運び出されるのに夕方遅くまでかかりました。

◆不思議なことですが、その欅の木が、その境内から消えてから、村の悪童どもが、そこに集まる回数がじょじょに減りはじめ、いつの間にかそこから子どもの遊ぶ姿も消えたのです。私たちは子どもでしたから、欅が無くなったことの寂しさなんか、そんなに感じませんでしたし、遊ぶ場所ですから、別にどうってこと無かったのですが、でも、子供心に「何かが違う…」と感じたのです。大げさに言えば、欅1本で「何かが昨日と違う」と感じたことが、小さなコミュニティーを分散させてしまったのです。

◆子ども時代に限らず、大人になっても『あれ、昨日と何かが違う…』と感じて、さめていく自分の気持ちを客観的に眺めている自分を感じたことってありませんか?。何か取り組んでいたことでも、仕事でも、人間関係でも…。

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むこうに

むこうに

◆春が行くと、もう思いは山です。最近は近在の手軽な山ばかりですが、以前は数日をかけて、よく山に入りました。その中でも北アルプスの端にある御嶽山は特によく入りました。
◆飛騨と信州に跨る御嶽山は標高3063メートルのかなり高い霊峰です。6合目まで車で入り、温泉宿で英気を養い、真夜中の1時頃、宿を出て登り始めます。雲海の上に出るご来光を見るためです。この飛騨側の道は急な原生林の中を歩くために、根っ子の階段のような山道です。しかも原生林の中ですから懐中電灯の明かりも吸い込まれる程の漆黒の闇です。苦しさと疲労を超えて、まるで暗闇の宇宙を彷徨っているような錯覚にとらわれます。やっと休憩の場所を見つけ、フッと闇の中を見ると、ずっと向こうの樹木の間にボッ~と明かりが見える瞬間があります。あんなところに人がいる筈がないところに…。深夜の山登りで『アッ、いま、あそこに光が…』という瞬間を見る登山者は結構多くいるのです。
◆それが、疲労による錯覚なのか、何かの自然現象なのか、分かりませんが、『いや、あれは、きっと、森の木陰でドンジャラホイとやっている山のフェアリーたちの宴に違いない』と思いましょう。

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