ドウマル

ドウマル

◆この子が着ている綿入りの上っぱり、私たちの子どもの頃は冬の遊び着の定番でした。飛騨ではこの上っぱりのことを‘ドウマル’と呼んでいましたが、いま住んでいるところでは‘デンチ’と言っていたそうです。それぞれの土地で呼び名が違うみたいです。

◆まさか方言なので辞書には載っていないだろうと思いながら引いてみると‘デンチ’はありませんでしたが、‘ドウマル’は‘胴丸’でありました。読むと、「戦のときに着ける簡易な鎧」とありました。なるほど、ドウマルも寒さをしのぐための簡易な上っぱり、だから多分この‘胴丸’が語源なのでしょう。

◆これ、どの子も各家庭で母親の手作りでした。私が見ていた母の記憶では、布団の古くなった布をドウマルの形に前二枚、後ろ一枚、に二枚ずつ重ねて袋状に縫い、グルッと裏返しにして、綿を重ねて置き、その綿がずり落ちないように真綿で丁寧にくるんでから、布を元に戻す、といった具合だったと思います。

◆私のような古布団の表地の再生ドウマルもいれば、家の人の古着の再生ドウマル、中には古い毛布で作ったものだからカミシモのように肩の張ったドウマルを着ているヤツも居たりしました。当時、ドウマルはちょっとした子どものオシャレな遊び着だったのです。

◆今はダウンベストですが、味がありません。今でも、何処かでドウマルを着ている人を見かけたような気がして、数年前のことですが店を探したことがあります。ありました!。ディスカウントショップに。プリント地ですが、いかにもそれらしいカスリ模様で、合成綿ですがフカフカで、あのドウマルそのものでした。早速、家内と私の二枚を買いました。

◆家に帰って、羽織るとき気づいたのですが、ナント「中国製」の文字が!。『お前、とうとう俺の記憶の世界まで入りこんできたか…』と、思ったものです。でも、重宝していますが。

◆◆こちらは昨日今日、いきなりの真冬日です。『おかあさん、寒いから、あの中国製を出してよ』『どこに片付けたかしら、あの中国製…』と、方言の‘ドウマル’まで乗っ取られてしまいました。

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友

◆これは、私が過ごした町の小学校と中学校です。もうとっくに鉄筋校舎になって、この木造の素朴さは微塵も残ってはいません。でも、どこへも抜けることの出来ない、どん詰まりの地理にある町ですから、中学校の向こうに見える部落も、山も、開発されることなく、今でもこの写真のままです。

◆飛騨高山での同窓会で、小学校5年生で転校していったT君との再会は40数年ぶりでした。物静かで、内に秘めた何かがあるといった彼の雰囲気は当時のままでした。そのときは昔話というよりも、お互いのその後の生活変遷についての話が多かったように思います。淡々と話す口ぶりに、当時の彼を重ね合わせながら聞き入ったものです。再会を約してメールADの交換をして別れました。

◆そして間もなく、この写真が彼からメールで送られてきました。写真の懐かしさもさることながら、小学校の5年生で転校したので、この町には10年ぐらいしか居住していない彼が、この写真を持っていたことに驚きました。もちろん私は持っていないし、当時の仲間との数少ない写真のほとんどが、もう散逸消失してありません。

◆さらに、この写真に添えられた文章を読んで、彼がこの町で過ごした幼少期の10年間を、いかに大切な思い出として留めているかが分かりました。サンショウウオの谷、ムシロ敷きの映画館、いつも登った高天原への山道、あの時の街並みの様子、地名、場所名、等々…、ずっと実家をこの町に置いていた私でさえ、記憶の端から消えようとしている数々が明確に綴られていました。彼の文章を元にして当時のこの町の微々細々の絵地図が描けると思うほどの彼の記憶でした。

◆友人というのはさまざまです。40数年のときを経て、いきなり会って、すぐ別れて、その後はメールでしか交流出来なくても、その40数年の空白が一挙に埋められる友人もいるのです。

◆彼から、先日、ある「写真誌」が送られてきました。設計士の彼が中心になって手がけた全国各地の建築物の写真集です。誰もが知っている有名ビルも、幾つかその写真集の中にありました。同窓会のときは、彼、そんなことは一言もは話さなかったのに…。それも彼らしいと思いました。

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何かが違う

何かが違う

◆某公募展に出品した作品です。そのCGデータにアニメを加えてご覧いただいております。

◆環境問題が叫ばれるようになってから「里山」という言葉がよく報道上に出てくるようになりました。特に、農作物への獣害では、
【かっては、人の住む里と動物がすむ山との間にあった里山は両者の緩衝地帯であったが、昨今、里山は荒れ放題か、もしくは住宅地になり、緩衝地帯の役目を為さなくなった、故に、里にいきなり山の動物が入るようになったのが獣害が増えた大きな要因である】と、報道されています。

◆私は、山国育ちなので分かるのですが、そんな、山と里山と里の区分けがハッキリしているところなんてそうありませんし、獣害の原因はもっと別のところにあるように思います。だだ、山の麓にある近くの自然環境とか、里の近くにある低い山とか、こんもりした林に包まれたお寺や神社の境内とか、そういうところを総合して里山と言うのなら、里山は、今も昔も地域コミュニティーの重要な拠点であり、大切にしなければと思います。

◆以下、環境問題とは特段、関係のないお話です。
私の郷里、飛騨の家の横に神社があり、その境内に、とんでも無い大きな欅の大木がそびえていました。境内は村の悪童たちの溜まり場で、村の子どもたちは、事あるたびにそこに集まり、そこで遊び、悪童どもの情報の集約場所であり、発信場所でした。
私が中学1年の頃だったでしょうか、朝、欅の下に村のおじさんたちが集結していました。母に何事かと聞くと、『神社のお社を建て替えるための木が必要だから、あの欅を切るんだって』と言うのです。
あまりの大木のため、切り倒してから切断し、トラックで運び出されるのに夕方遅くまでかかりました。

◆不思議なことですが、その欅の木が、その境内から消えてから、村の悪童どもが、そこに集まる回数がじょじょに減りはじめ、いつの間にかそこから子どもの遊ぶ姿も消えたのです。私たちは子どもでしたから、欅が無くなったことの寂しさなんか、そんなに感じませんでしたし、遊ぶ場所ですから、別にどうってこと無かったのですが、でも、子供心に「何かが違う…」と感じたのです。大げさに言えば、欅1本で「何かが昨日と違う」と感じたことが、小さなコミュニティーを分散させてしまったのです。

◆子ども時代に限らず、大人になっても『あれ、昨日と何かが違う…』と感じて、さめていく自分の気持ちを客観的に眺めている自分を感じたことってありませんか?。何か取り組んでいたことでも、仕事でも、人間関係でも…。

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むこうに

むこうに

◆春が行くと、もう思いは山です。最近は近在の手軽な山ばかりですが、以前は数日をかけて、よく山に入りました。その中でも北アルプスの端にある御嶽山は特によく入りました。
◆飛騨と信州に跨る御嶽山は標高3063メートルのかなり高い霊峰です。6合目まで車で入り、温泉宿で英気を養い、真夜中の1時頃、宿を出て登り始めます。雲海の上に出るご来光を見るためです。この飛騨側の道は急な原生林の中を歩くために、根っ子の階段のような山道です。しかも原生林の中ですから懐中電灯の明かりも吸い込まれる程の漆黒の闇です。苦しさと疲労を超えて、まるで暗闇の宇宙を彷徨っているような錯覚にとらわれます。やっと休憩の場所を見つけ、フッと闇の中を見ると、ずっと向こうの樹木の間にボッ〜と明かりが見える瞬間があります。あんなところに人がいる筈がないところに…。深夜の山登りで『アッ、いま、あそこに光が…』という瞬間を見る登山者は結構多くいるのです。
◆それが、疲労による錯覚なのか、何かの自然現象なのか、分かりませんが、『いや、あれは、きっと、森の木陰でドンジャラホイとやっている山のフェアリーたちの宴に違いない』と思いましょう。

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気難し屋

気難し屋

◆シャガ、水はけの良い、木漏れ日の山の斜面などに群生する晩春の山野草です。地中を這うように根が繋がり、先々で芽を出し、群生地域をつくっていくのです。全国どこでもありますので、ご存じの方も多くお見えかと思います。

◆その飛騨の山峡の町で、私が、ものごころついてから最初に覚えた花の名前がシャガです。あまり草花に興味のない私にとって、よほど強い印象の花だったのでしょう。彼女は実家の裏山の斜面や、すぐ横にある神社の杉林の地面にビッシリ群生していて、最初に山国の初夏を飾るのは彼女達でした。小ぶりな花ですが、多分、姿形から見て、アヤメやショウブの仲間でしょう。でも、それらと違って花びらの色と柄にかなり意匠を凝らしていて、これが野生の花かと思うほどもきれいさです。

◆その山峡の町は、5月中旬、近隣のどの町よりも多くあちこちに彼女が咲き乱れるのです。だから、‘シャガの○○’といったように彼女の名を頭に付けた商品や温泉の屋号があるほどなのです。しかし、彼女、なかなかの気難し屋で、彼女を花瓶にでもと、切り花にすると30分で完全に萎れてしまうし、他所に移植しても、よほど彼女の気に入った場所でないかぎり、絶対に根付いてくれないのです。

◆私も、いまの家に住むようになってから、飛騨に帰省するたびに、彼女の株を持ち帰って、家の庭に場所を変えながら、毎年、移植したのですが、いつも嫌われっぱなしでした。移植を始めてから5年目に、フッと、彼女は気むずかしいから、ちょっと変わった所へと思い、花壇から出てきた邪魔な小石を一カ所に集めている所に、無造作に移植してみたら、なんと、それがしっかり根付いたのです。3〜4年でその一角が彼女のテリトリーになりました。ここは飛騨より暖かいものですから、4月はじめに花を付け、いま伸び放題です。この写真が我が家の彼女です。【バックの絵は、彼女の郷里のイメージです。】

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虫こそ

虫こそ

少し気持ち悪いかも知れません。虫です。自分が飛騨で育ったからということもあるかも知れませんが、私は虫に対して一つの見解を持っています。それは『幼少時の男の子が最初に対峙し、乗り越えなければならない手強い相手、それが虫!』と言うことです。小さいけれどその姿形が異様でどことなく怖い。でも捕まえたい、捕まえると足でひっかかれたり咬まれたりする、ビックリして地面に虫を叩き付けたりもする。そんなことを繰り返しながら“怖さ”から脱却していく。少々オーバーな言い方ですが、男児が最初に家族を離れて自分自身の力で度胸や勇気を育む教材が‘虫’です。樹を見上げ、草を分け、土を掘って虫を捕っている悪ガキこそ真っ当な育ち方をしている男の子です。(右下の虫、枯葉とその葉脈をphotshopで加工してつくった創作虫です。でもこんなヤツ、山の腐葉土をめくると、その下に居なかった?…)

向こう岸の村

向こう岸の村

5歳のときから18歳まで育った飛騨のすべてが私の原風景です。飛騨の自然風景も人々の暮らしも私の記憶の中では陽光燦々たるものではなく、どちかといえば暗いものなのですが、それがまた郷愁を一層かき立てるのです。私の家は川を挟んで、やや北東の山の斜面に貼り付いていました。午後3時になると太陽は向かいの高い山に遮られて日陰になるのです。川向こうにある村を見るといつまでも太陽があたって明るいのです。子供心に向こうの村の方が店も多いし、祭囃子の音もこちらの村より大きく響いているように思ったものです。学校でも向こう岸の連中の方が威張っているように思えて、よくケンカをふっかけたものです。
でも、高校の頃近くに橋が出来て、向こう岸の部落に行きこちらを眺めると意外に明るく美しい山村風景でした。

森の奥で

森の奥で

私を育ててくれたのは飛騨の山奥です。5歳から高校を卒業するまで、御嶽山の飛騨側の登山口にあたる山峡の村で過ごしました。
霊峰で知られる御嶽山も今は6合目まで車道が出来ていますが、当時は麓から歩いたものです。私も毎夏御岳登山に挑戦しました。いくつもの山を巻き、谷を越え、原生林の中の山道を歩いていると、それはこの世のものとは思えない別世界の風景に出会うのです。
深く暗い原生林の中に突如滝が現れて、その滝壺だけに一条の陽光が注いで、そこに小さな虹が架かっているのです。森の妖精たちが宴を張るステージに違いないと思ったものです。